八碁連だより388号(2月号)

記憶力がどうも
長房囲碁同好会 池口 隆久

 記憶力がどうも。齢がとしだからしょうがない。と考えておられる方がいませんか。私も実はその仲間なのです。どうも人の名前が思い出せない。うっかり間違って言うと失礼だろうから、名前は言わないようにして、話を済ます。そのようなことありませんか。
 私は、恥ずかしくても、相手の名前を聞いたほうがいいとはおもうのですが、これがなかなか勇気のいることなのですね。二人で会話をしているときに、第三者の名前が出てこないことがある。「ほらあいつだよ。六年生の江の島遠足で、泳いでしまったやつ。何という名前だっけ。あいつは。」こまったことに二人ともその第三者の名前が浮かんでこない。
こうなると悲劇ですね。21歳ころがピークなのでしょうか。脳細胞は徐々に減少し始めているのでしょうか。減ってもいいのです。もともとたくさんあるのですから。あまり気にはしないほうがいいのです。脳に刺激を与える工夫をすることと、脳の仕組みを理解して、その対策をかんがえたほうがいいのではないでしょうか。
 あることについて学習した場合ですね、翌日はその記憶が7・8割は残っているものです。ところが一週間もたつと大抵の人はその記憶が1・2割になっているようです。5割も覚えていたら天才・秀才の仲間でしょうね。誰でも1・2割の記憶があるのですから、これを大事にしたいものです。
 私は、記憶の悪いことにかけては自信がありましたから、ひとの3・4倍は勉強しようと思いました。その結果、まあ何とか学校の勉強には着いて行けたようです。
 60歳を過ぎたら、退化すればこそ良くはなりはしない、と勝手に決めつけていました。脳にあまり期待できないのなら、弓道はあまり頭で考えずに体で覚えようと考えました。手と足と胴体で十文字を造り、それを徹底的に守る。もう一つ大事なことは、精神面です。
理想は、「何も考えない」ことです。「無」とも「空」とも言いますが、この状態に心を置くことは大変に難しい。これには困りました。つい、脳が勝手に計算して、的に中てたいとか、格好よく引いて褒められたいとか考えてしまうのです。決勝戦の射詰などは特にそうです。
あと一本を中てれば優勝という場面では、つい計算してしまう。「あと一本で優勝」と。もう失敗です。考えないようにするのがいちばんむずかしい。
私は、今でも、弓道は精神面の修業が5割をしめると信じています。高段者になるほどこのことが分かってくるのです。3段でつまずいてしまう人もいるし、4・5段でつまずく人もいます。つまずく原因は、「中てたい」という願望があるからです。格好が悪いと、中てても審査員は評価してくれません。まずは、美しく、格好が良いことが、全てです。それで中たるのが良いのです。
「中てる」のではなくて「中たる」のが良いのです。なりふり構わず、中てにいく人は周りから敬遠されます。これが上達の妨げになるのです。
 話はよこにそれましたが、囲碁に話を戻します。私は60歳になればもう上達は望めないと考えてはいました。
しかし、こう考えました。還暦を過ぎれば、物忘れは激しくなり、記憶力もわるくなり、覚えるそばから忘れていくだろう。それなら挑戦してみよう。記憶したものが忘れられていく曲線を想定し、一週間で1割の記憶が残るということを重視したのです。1割が残るなら、その1割の学習成果を積み上げればいいじゃないか、と考えたのです。
 80歳を超えた今では、昔の棋士たちの打碁を碁盤の上に並べているだけです。私の場合は1割も怪しい。すぐに忘れます。だから、頭は忘れても、指先が覚えてくれないかと、毎日のように碁石を並べています。その成果は、もっか実験中ですから、まだ答えは出ておりません。
脳には期待できないから、指に覚えこませようなんて無理なのですかね。そこらでお会いした時に聞いてください。「どうです、指は覚えてくれましたか」と。