八碁連だより394号(8月号)
私の八王子
中野囲碁同好会 望月 毅士
職場の友人が、会社を辞めて、本屋をかわきりに、喫茶店、クリーニング店、飲み屋と拡げ、碁会所まで始めました。そこでの大会に誘われて、初段で参加せよといわれ囲碁を楽しんでいましたが、負け続きでした。55才の時「囲碁研究」を購読しました。その後、磯部さんに誘われて、中野囲碁同好会への入会、三浦浩元アマチュア本因坊宅での指導碁を受けるなどして、現在に至っています。最近は中野囲碁同好会と小町さんが開催しているサークルで遊んでいます。そこに八王子市の名称に大変係わり深い方のお孫(粟澤)さんがおられまして、勝ったり負けたりしています。
八王子に来て、50年近くになります。八王子について調べた事を紹介します。万葉集(仁徳天皇~淳仁天皇)に“多摩の横山”(八王子の旧名)と歌われていました。国の制度を設定した大化改新(645)時、八王子は武蔵の国多摩郡の中に存在していました。武蔵の国は府中が国府となり、22の郡に編成され、その中に多摩郡がありました。
八王子地方は由比牧(馬の産地)と呼ばれ、小野氏が支配していました。小野が改姓し、横山氏を名乗ります。
源頼朝は江戸太郎重長に武蔵の国、本領安堵を許し、重長の家臣に横山党が存在していました。1213年、北条と和田の戦いがおこり、和田(配下に横山党)が負けました。その時300年続いた横山党が滅亡し、その後、大江広元の次子が長井を名乗り、片倉を本拠としていました。長井は関東管領上杉の配下で、上杉は1546年川越夜戦で北条に降伏します。その結果、八王子は北条氏照に治められていましたが、秀吉の小田原攻めで北条氏照は滅亡します。徳川の時代にはいり、大久保長安等徳川の家臣によって治められていました。
明治になり、八王子は神奈川県第9区に属していました。明治11年11月、町名を決めることとなり、横山宿(横山宿、八幡宿、本郷宿、久保宿、島の坊宿、上の原宿、本宿、馬乗宿、子安宿、横町、新町、寺町、小門宿、千人町、元本郷村、新横山村、子安村)としていたものを、千人隊の一人、粟澤八三郎が町田付近で、追い着き「八王子」に変えました。その後多摩地区で民権運動が盛んとなり、明治26年神奈川県から東京府に移りました。
(神奈川県知事が民権運動に嫌気をさし、放り出したのかな?)
大正6年(1917年)市制施行に伴い、同年12月に「市制制定」されました。昭和16年(1941年)には小宮町(大和田、中野、宇津木、石川、小宮、高倉)を併合、昭和30年 横山村、元八王子、恩方村、川口村、加住村等6村の編入、昭和34年 浅川村、昭和39年 由木村の編入で現在の八王子となりました。
「八王子名称の由来」
坊さんの大伴妙行が元八王子の深沢に庵を結び修行をしていました。ある日、夢の中で一頭大蛇が出てきて、その頭を一喝し「汝は何者ぞ」問うと、白髪の老翁に変わり、八人の童子をひきつれて、“私は牛頭天王じゃ、伴っているのは、私の子供達八人だ。私はこの地方の主、わしと子供達八人をこの地に祭りこんでくれるならば、永遠にこの地方の幸福と安全を護る。”と語ったのが八王子の由来だそうです。